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留学記 フェレールに就いて

アルハンブラ宮殿で有名なスペイン南部アンダルシアの歴史の街グラナダに、師エドゥアルド・フェレールが主宰する「カサ・フェレール(設立1875年)」があった。彼は当時66歳で、伯父のベニート・フェレールから製作技術を学び、アントニオ・マリンなどグラナダの多くの製作家たちに影響を与える偉大な存在であった。フェレールにはヤマハで製作の技術指導を受けたことがあり、再会を喜んだ後に家族を紹介された。カサ・フェレールから100m離れた坂の上に30㎡くらいの工房があった。作業机が4台並び、棚の上にはギターの材料が積まれ、製作途中のギターが並んでいて手作りを十分発揮できる工房だった。

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エドゥアルド・フェレール ​1974年撮影

ここでフェレールや彼の娘婿アントニオ・ドゥランの指導でもとに、若い3人の弟子たちと一緒に私の本場の音を求めたギター製作の修業がスタートした。指示されるまま表板に米杉、裏板・側板にはインドローズを使用したフェレールブランドの高級ギターの製作を行なった。


フェレールの承諾を得て工房に入ったものの、技術が親族に継承される閉鎖的なギター製作の世界で、監督者のドゥランには外国人の私が技術を盗みに来た者に見えたようであった。しばらくは、言葉が通じない中で彼のきつい言葉やつらい指示を受けながら作業が続いた。彼が納得するほど言葉では説明できないので常に感謝の気持ちで接し、私のギターに対する情熱を理解してもらうよう態度で表していった。

工房には仕様書や図面はなかった。私は、弟子たちの製作中のギターを物差しやノギスで10分の1㎜単位で測定し、彼等の寸法に合わせた。フェレールとドゥランは、数日間の私の仕事ぶりを見て「ギターは目と手の感覚でつくるものだ。物差しは捨ててしまえ」と言った。私は、材料のバラツキの上に製作誤差まで加わり、音のバラツキはさらに大きくなるではないかと思った。彼らは、「悪いものもできるだろうが、良い条件が重なれば飛び切り良いものもできる」と付け加えた。

日本では、私たちは製品のバラツキをなくすため材料を選別し部品の寸法を均一化して、その平均値を高めるよう努力をしてきた。この考え方の違いに、スペインと日本の大きな差を感じた。やはり、フェレールの指導のもとグラナダで製作した私のギターも、弟子たちのギターと同様に音のバラツキは大きかった。高音の音の太さを比べた場合でも、太いギターから細いギターまで様々であった。音量にも1本1本差があった。しかし、どのギターも共通してラテン的な音色で音のレスポンスの良さは持っていた。私がつくったギターもフェレールブランドの高級ギターとして販売されていった。

ゴメレス坂にある他の製作者のギターを弾いてみても、フェレールの音と共通した音色を持っていると感じた。グラナダでフラメンコギターも数多く製作されていて、クラシックギターは音の重厚さがなくフラメンコギター的という共通点があった。これが、アンダルシア特有のアンダルシア人気質にも似た明るく開放的な共通の音色なのかと思った。

異文化の生活や言葉の不自由さに悩みながら黙々と作業する私の態度や片言の言葉から、ドゥランとの間の壁も徐々に取り除かれ、仕事の指導も丁寧になった。数回にわたり高級ギターの製作を繰り返している間に、彼らの製作技術の全容や考え方が次第に理解できてきた。

次は、自分がこれまで得た知識をベースに自分のギターを製作したいと申し出た。よりクラシック音楽向きの音を求めて、3種類の仕様で計6本のギター製作に入った。完成品の音は、フェレールギターより音が少し太く重厚感がありよりクラシック音楽向きで、仕様間の音の差もあった。しかし、製作前に日本での経験から頭に描いていた音とは、音色が大きく異なっていた。音の基本となるフェレールのラテン的な明るい音色は残っていた。その原因は、アンダルシアの風土の影響なのか、フェレールの製作技術や指導の影響なのか、私がアンダルシア人気質を少しは理解したのかは不明だった。自分のギターに自信や誇りを持っているフェレールやドゥランは、私の新しい音のギターは良いギターだとは言わなかった。

約1年の修業で、アンダルシアの気候やスペイン人の陽気な気質の中で明るくラテン的な音色のギター製作、伝統的なスペイン方式の製作技術など習得したことは多かった。フェレールやドゥランの家族、周囲の多くの人たちに感謝の気持ちを伝え再会を約束して、第二段階となる本場の音づくりの真髄を習得するためマドリッドへ移動した。

 

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