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製作記 江崎モデルの製作

1974年暮れ製作留学から帰国した時の日本は、オイルショックの真最中であった。ヤマハで留学の報告を上司や社長に済ませ、スペインでの修業の成果を出すために手工ギターの工房に入った。工房は手工ギターの開発当初から関わっていた職人たちが木工や塗装の仕事に精を出していた。エルナンデスから学んだ製作技術や精神面をギターの中に取り入れて、スペインで製作した「エザキ・アグアード」の音の再現から始めた。ギターの研究開発で未知の音を求め、スペイン留学で本場の音を求めた。そして帰国後は師匠の手を離れ自分自身の音を求めるという新たな段階に入った。

材料は工房の在庫品から選び、基本仕様はエルナンデスの工房で製作したギターと同じ仕様で製作を開始した。製作中は時間の経過を忘れ、休憩や昼食の人の動作で時間を知る状態だった。その日の仕事の区切りや気分がのってくると一人工房に残り、見回りに来た守衛に「ご苦労さん」と声を掛けられる日が続いた。製作途中のギターを見つめていると、エルナンデスの「急いではいけない。急ぐと良い仕事はできない」などの言葉を次々と思い出した。彼も相変わらず工房で製作に取組んでいるだろうが、彼一人で話し相手もなく、もくもくと仕事に精を出している姿を私は想像していた。

3ヶ月を費やして帰国第1サイクルが終了し、記念すべき4本のギターが完成した。張弦して初めて出てくる音の感激は、日本でも同じであった。今回製作したギターとスペインで製作したギター、エルナンデスが日本で製作したギター、日本の職人たちがつくったギターを持ち込み、関係者で社内評価会を開催した。私のギターの評価は完成してまだ時間の経過が少なく生音であったが、一番重要なスペイン的な音の香りは十分持っていた。その後、ギタリストによる試作品の評価会も続けて行なった。師匠から独立して第1回目に製作したギターの総合的な評価は、スペインの修業成果を漂わせたギターであった。ギターの仕事に関わっている仲間やギタリストに、成果の一部を音として認めてもらえた様子であった。

1975年3月4日、ギター製作家のヘスス・ベレサールから黒い縁取りの一通の手紙を受け取った。エルナンデスが風邪で体調が優れないことは知っていたが暖かくなってくればまた元気になると大きな心配はしていなかった。励ましの手紙を出して、彼に作業用のエプロンをプレゼントしようと準備中だった。手紙には「君が帰国してからマエストロは元気なく、病気気味で仕事も休む日が多かった。マエストロは死亡した」と書かれていた。「マヌエル・エルナンデス(本名サンティアゴ・ディアス・マルティネス)1975年2月22日死亡。享年79才。」と葬儀案内状が同封されていた。

師エルナンデスと江崎.jpg

マヌエル・エルナンデスと

マドリッドの彼の工房で(1974年)

エルナンデスとの出会いからマドリッド空港での別れまで、時間の経緯とともにいろいろな出来事が思い出された。約2年間で彼から学んだ製作技術や製作に対する精神面の修行をしたことは、その後の私のギター人生に大きな影響を与えた。研究熱心でスペイン人には珍しいほど几帳面な性格、人生経験からくる悟りなどは、彼のギター製作に立ち向かう態度や彼が発する言葉に現れていた。その言動から私なりに多くのことを学び、私の生涯の師匠となった。また、私生活の細部まで面倒をみてもらい感謝すべきことは山ほどあった。

エルナンデスの音には彼の精神や信念があるし、彼の音を追求することが私の終局の目標ではなかった。私には私だけしかつくれない音があり、彼らから学んだ基本的な技術や考え方をベースに、私の音をさらに完成させていこうと心に誓った。「天国のエルナンデスよ、これから長く続く私のギター人生を見守っていてくれ」と空に向かってつぶやいた。私の生涯でギターと闘い続けることが、エルナンデスへの最大の恩返しだと心の中で思った。

私の製作に対する姿勢や考え方は、マドリッド製と変えたつもりはなかった。しかし、日本の風土や職場の環境はスペインと大きく変わった。この環境の中で、自分の考えで自分の音をつくるための研究を進め、さらに良い自分の音を求めていく必要があった。イギリスのホセ・ルビオの工房で弟子の佐藤一夫とポール・フィッシャが製作したギターの音を聴いたことがあった。彼らがルビオから独立後に製作したギターを試奏する機会があった。その音はルビオの工房で製作した音の印象とは傾向が異なっていた。彼らも師匠のもとを離れ、自分の技術や考え方で製作し、自分の音を求めていることが試奏して理解できた。

第二サイクルから販売を前提とした本格的な製作に入った。私の製作したGC-30Bには私のサインを入れ、ギタリストたちや愛好者からは「エザキモデル」と呼ばれた。作業中は指先にマメを作り、手の平はタコだらけとなり、またペーパーを掛ける時に爪の先端は無くなる状態で製作を続けた。塗装ではセラックニスを溶かしたアルコールで指先の皮が3回剥けた。しかし、最後にギターが完成した時の感激は、製作者の特権で何度味わっても嬉しいものであった。変えることのできない日本の風土や職場環境の中で、私の目標とする音を求めて、毎回少しずつ仕様を変えて音の改良を続けた。

製作留学で取得してきたスペインの製作技術や製作に取組む姿勢を私一人のものとしておくより、伝統の技術を広めるために若い職人たちを指導しながら一緒に製作を続けた。製作の途中で エザキモデルやアグアードギターの仕様のポイントを説明したが、これは現物を見れば同じようにつくることができた。特に私の体験から精神面の重要性を説いた。実際にギターの中へ精神面を導入することは、頭の中で感覚として理解はできるが実感として感じることは難しかった。彼らの製作の体験を通じて彼らの考え方や製作態度で、次第に肌で感じてもらうほか方法がなかった。

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YAMAHA GC-30B 1976年製

完成して初めて出てくる音の感動を繰り返し、自分自身での製作が5年続いた。その間約60本の「エザキモデル」を製作した。その結果、エザキモデルを評価してくれるギタリストやギター愛好者の数が次第に増えてきた。檀上宣順は「音楽は美しくなければならない。音も美しくなければならない」との信念から毎回意見を述べ、私のギターの評価者として音を育ててもらったギタリストの中の一人だった。彼の適切な意見は私のギターの完成度を少しずつ高めていくことができた。来日中の海外のギタリストや日本のギタリストの来社や訪問で、エザキモデルを評価してもらった。

ドイツのジークフリート・ベーレントは、エザキモデルを約半年引き込んだ後、ヨーロッパや日本各地でのコンサートに使用し、彼の音楽を引き出す手足となった。来日中のある日、コンサートホールを借りて、大きなホールでの遠達性や響き具合を確認するために、彼の愛器であったワイス・ガーバーなどと弾き比べ会を実施した。この結果、彼は演奏者の立場からも聴衆の立場からもエザキモデルの音がたいへん気に入り、その後の彼の愛器となった。

最近、私がヤマハ時代に製作したギターを購入したギタリストやギター愛好者たちに、まだまだ音が成長していると話を聞き、ギターをみる機会を作っている。懐かしさとともに、その時の精神状態が音に表れていると思えばたいへん怖い思いで、音をチェックさせてもらっている。

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